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Visual Media ができたきっかけ

helmi
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みなさん、こんにちわ

ヘルミ(@helmi.model)です。

今日は初めてこちらのブログを更新するので、自己紹介と今の活動に至った経緯をここで記載できたらと思います。

私自身いろんな活動してるので、各業界の人に何してる人?と聞かれることもあり、ここで1つにまとめようかと思います。

?LESSONについてはこちらに記載あります?

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レッスン内容
レッスン内容

見た目がコンプレックスの学生時代

5歳の頃に転園がきっかけで慣れない環境になり、幼くして過食症を発症。

転園前に仲の良かった友人も見た目が変わったことで対応が変わってしまったことを機に【見た目は心の表れ】であることを学びました。

大人になったら、こんな自分自身を変えたい一心で、今はすぐ変わることのない、勉強に学生時代を捧げることを決意。

当時から読書家でたくさんの経営者の本にモチベーションをもらい、経営者になることを願うも、家庭の事情で大学に進学はできないことを知り、就職するにも勉学が1番大事だと痛感。

夢から自分の目標を逆算した時に、経営者は広く活動することを意識し、公務員の中でも国家公務員を選び、国の動きを知りたいと思い、国家公務員を受験。

抜き打ちの官庁訪問の面談で二次面接免除で現役合格。

学校を卒業後、上京し、省庁に入省してました。

2つの生き方に悩んだ公務員時代

働きながらも自分自身のやりたかった経営の勉強を行うために、平日は公務員、土日は起業や経営者イベントやオンラインの経営学部の大学の講義を受ける毎日。

自分自身どちらの生き方をしたいか常に考えていた時期だと思います。

公務員だったので、自分自身の専門性がないことにも焦りを覚えていたこと、過労がきっかけで体調を崩してしまったことを機に予定より早く辞めることを決意。

何より実際に自分の目でいろんな経営者の方に会って、話し、その生き方が自分の方に合ってると気づいたことも理由の1つでした。

失敗するなら若いうち

と自分自身に言い聞かせ、自分の新しい挑戦のために、今ある安定を捨てた時期でした。

とにかくがむしゃらだったビジネスコンテスト時代

仕事を辞めてからは、大学の先輩や同期のスタートアップ事業の支援をしたり、サポートをする日々。

時間にも余裕ができたので、ビジネスコンテストにたくさん参加して、事業計画書をたくさん量産していた時期です。

しかし、自分自身の専門性がないことが原因で、事業アイディアを考えるも現実味のない絵空事のようなものばかりできて、自分の専門性がなくて焦っていました。

また、事業計画を立てるもすぐ他の同期の事業計画に目がいき、自分の計画が進んでいなかったので、経営者として活動するよりもフリーランスとして、サポートに回った方がいいんじゃないかと考え始めました。

また、同時に「自分自身の発信」につまづいて、挫折する仲間を見ていて、「応援する人間」の存在が必要なんじゃないかと無意識に撮影者の活動に足を踏み入れました。

他人の人生を応援することに気づいた撮影者時代

自分の生き方に何か変化が必要と気付いた時に見つけたフィンランド留学??

見つけた3ヶ月後には貯金70万しかないのに飛び立ってました?

そして、その頃に英語ブログを開設。

現地で仕事をしようにも見つからず、留学の記録で使う予定だったビデオカメラを使って日本企業に営業したところ、なんと面談してもらえることに。

面白さとやる気だけで撮影代行の仕事をエストニアのタリンでSkypeだけで決めるというとても異例な経験をしました??

(当時、はじめてお仕事をくださった株式会社炬燵の安部社長には感謝ばかりです。YouTube運用代行業界1の安さとクオリティの高さなので、YouTube頑張りたい方はぜひ依頼してみてください。)

その後は、面白いからフィンランドでドローンを飛ばしてみてと送料10万円をかけてもらい、ドローンを送ってもらい、フィンランド語の航空法を試行錯誤して、読解し、オンライン申請ではじめて海外でドローンを飛ばしました。

(いまだに日本ではドローン飛ばしたことないレアな元ドローン操縦士です)

そこから、ヨーロッパ、東南アジアと活動を続け、タイでは動画コンサル、フィリピンでは映像企画、ミャンマーでは臨時日本語講師、カンボジアではYouTube企画・編集・翻訳と幅広く活動させてもらいました。

特にカンボジアではシェムリアップの観光大使とともに地元企業をPRしたりと自分の発信がきっかけで声をかけてもらう機会がとても増えました。

他人のブランディングのために自分をブランディングを強化したモデル時代

しかし、そんなことも束の間。

新型コロナウイルスの影響により、緊急帰国。

帰国するなら、京都に住んでよと言われてたのがきっかけで京都に住むことに。

当時は2020年3月10日に日本に帰国し、2週間のホテルステイが義務化される数日前でした。(それがなかったら、今頃ミャンマーに住んでたかもしれません。)

帰国して、仕事もなくなり、合わせてネットストーカーの被害にも遭ってしまい、警察からブログ閉鎖を言われ、自分の発信源でもあったブログを閉鎖。

一時期は発信することがトラウマになってしまいました。

でも、やめてしまったら、これまでの活動は全て無になってしまう虚無感もあり、嫌だけど絶対に諦めたくないという想いと自分のためにお仕事や声をかけて下さった方にも失礼だなと自分自身思ったので、再会を決意。

当時、カンボジアの観光大使に「君が映像に入ってくれることが私たちの事業を知ってくれるきっかけになるから、ぜひ前に出て欲しい」

と言われたことを思い出し、自分自身が前に出ることを決意。

撮影者として今一つ被写体の気持ちや撮影される媒体の見せ方に悩んでたこと、

時間もでき、スキルアップも兼ねて被写体を経験したいと思い、モデル事務所に入ってヒールウォーキングを学び始めました。

学ぶなら徹底的に学ぼうと週1の頻度で通い、それを1年続けて、はじめてファッションショーに参加しました。

これまで、自分と向き合うことを避けてきて、はじめて、自分とちゃんと向き合った時期だと思います。

自分で自分の人生を発信できる人を増やしたい

海外に出て仕事をするまでは、自分の良さは誰かに評価してもらえるとそうずっと思っていました。

でも実際には自分の良さは自分にしかわからず、また、自分の言った言葉、発信したものでしか、他人はあなたを評価できません。

人は見たものでしか自分を判断できないと気づいた幼少時代。

人の生き方、働き方を考えた公務員時代。

ビジネスコンテストでずっとライフスタイル×仕事をどう見つけるかに苦労したり、自分自身の本当の良さを発信することに悩んだフリーランス時代。

いろんな国のいろんな生き方を見た撮影者の時代。

他者のために自分を磨いたモデル時代

があって、今の講師やブランディングサポートがあります。

誰よりも味方であるメディアサポーターでありたい

どう発信するかは誰でも発信できますし、教えるのは簡単です。

でもそれをどうその人それぞれに落とし込むか、現実的に実現していくかは発信することに人一倍悩んだ自分だからこそできると確信を持って言えます。

私に相談をしてくださる方には最大限できることはお伝えしてますし、その人の夢や目標を笑うことなく、絵空事かもしれないその想いを現実的な目標に落とし込んで、一緒に目の前の課題に向き合います。

発信した先に考えついてなかった未来があること。

メディアは自分自身を映す鏡であること。

そう言ったことを必要としている人に届けたいですし、自己ブランディングや発信に悩んだ方のサポートをするのが好きで、今でもやってます。

それらの思いから、

あなたの想いを可視化するメディアサポート=Visual  Media

と名づけました。

ここまでこの記事を読んで少しでも、自分が変わりたいという気持ちが出てきた方はぜひコメントや公式LINEで気軽にご連絡ください。

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